「Dynamite!!」雑感
今年の大晦日はTBSの格闘技番組「Dynamite!!」を見て過ごしました。何試合か心に残った試合があるので、その感想を。
■吉田秀彦vs石井慧
この試合については、マネジメントやプロモートに失敗しちゃったかなという気がした。
そもそもの話として、柔道家の総合格闘技初戦というのはこんな感じなんですよね。打撃に対応しきれず、中途半端な受け攻めに陥ってグダグダという。戦闘竜にボコられつつも勝った滝本誠や、桜庭にタコ殴りにされたキム・ドンシク、どの試合がガチ初戦なのか判らないけれど最後までどこかぎこちなかった小川直也など……。
吉田や秋山のように初期から白星を重ねて来た選手であっても、階級が全然違う選手や、寝技の出来ない打撃系選手(極端なのになるとボクサーとか)相手に勝利することが多かった、悪く言えばマッチメイクの段階でプロテクトされていたわけで、試合をこなすごとにどんどん強い選手になっていったわけだ。
この試合がマネジメントのミスと書いたのは、いきなり吉田秀彦という穴のない選手――柔道をベースに打撃やスタレスを覚えて行くという総合格闘家の「王道」のひとつを歩んで来た選手を石井選手に当ててしまったことで、顔見せの花相撲にするならば、K-1選手(マイティ・モーとか)か穴の大きい大味な選手(ボブ・サップとかジャイアント・シルバとか)に当てておけばよかったのになと感じた。まあもともと戦極で組まれていたマッチメイクだったので、そういう選手は呼びたくても呼べなかったと思うけれど。
とはいえ、これは結果論であって、プロモーターが非難されるべきだとは全く思わない。金メダリスト対決と言う判りやすい構図は世間に対する訴求力があるし、吉田秀彦についても身体能力的・モチベーション的に全盛期よりも劣化しているし、穴のない選手であるけれど石井の素材なら乗り越えられるんじゃないかという判断は、それほど間違ったものではないと思う。
また、我々観客側にも、過去柔道家の総合デビュー戦がいかにグダグダかを嫌と言うほど見てきたにもかかわらず、昨年金メダルを取ったばかりの選手が総合に出てくるなどと言う経験は初めて(?)だったわけで、そんな選手ならば吉田と言えど完封して勝ってしまうのではないかと言う幻想があったことは否定できない。石井慧という人はそれだけの逸材なわけです。
そういうプロモーター側の判断、我々の幻想という重荷を背負うには、石井はやっぱりまだ若く青かったんだよな。これは石井選手が悪いと言うことではなく、もう仕方のない話だと思う。達成困難な課題を与えてしまったのはプロモーターであり、我々であるからだ。誰が悪いと言う話ではなく、ファンタジーが消滅し、味気のない「現実」がリングの上で繰り広げられる、こういうしょっぱさも総合格闘技の姿のひとつではあるのだ。
柔道出身の選手は大体強くなるので、石井選手も今後UFCのヘビー級でチャンピオンを取れるぐらいになってほしいですね。応援してます。
■藤田和之vsアリスター・オーフレイム
須藤元気が「(アリスターの身体は)ホント凄いですねえ。オーガニックフードだけでこんなにはなりませんね」とか言ってて、それって要は「ステロイド打ちまくってますね」ってことだろとテレビの前でひっくり返ったのだが、やっぱりステロイドモンスターと生身の人間(それも日本人)の試合は危険すぎるので組まないほうがよいと思います、ほんと。
桜庭和志選手がPRIDEで階級上のステモン(ヴァンダレイ・シウバ。ヒカルド・アローナも怪しい)と激闘をさせられてパンチドランカーみたいになっちゃった過程や、いつぞやの吉田秀彦vsジェームス・トンプソンのように、ステや興奮剤をドカドカ打ってる外人とナチュラルな日本人との試合では何度も生命の危険を感じるようなシーンを見させられているわけで、またこんなことが繰り返されたのかという感じ。怒りを禁じえない。藤田選手のご無事を祈っています。
しかし日本の格闘技界はなぜこれほどステロイドに寛容、悪く言えばだらしないのか。薬物に厳格なUFCやストライクフォース辺りとの差別化因子にしているとか、単なる慣習でこうなっているとかだったら、ちょっとナチュラルな選手が不憫過ぎると思うんだけどな。
■魔裟斗vsアンディ・サワー
私はあんまり魔裟斗のいい観衆ではなかったのだけれど、それでも00年代の格闘技界を牽引したスーパースターの引退試合ということで、それなりにウェットな気分で観戦を始めた。が、試合を見るにつれ「何で自分は魔裟斗にこれほどノレなかったのか」という問題が心の中に芽生え始め、終わりの頃にはそのことを主に考えていたのでなんだか複雑な読後感になってしまった。
ひとつ結論を出すと、それは多分魔裟斗が観客に「上澄み」の部分だけを提供して、その下にあるドロドロとした何かを徹頭徹尾見せようとしなかったことにあると思う。どういうことか。
「ビッグマウスだが凄く強い若者」「遊び人に見えて超ストイックな格闘技選手」「最後まで戦い抜く」「K-1MAXで絶対に優勝したい」「余力を残して引退したい」。魔裟斗が観客に提供し続けてきたパブリック・イメージと言うのはこの辺りだろう。努力や上昇志向、闘志に夢、これらはメチャクチャ格好いいイメージだし、実際にそれを体現しきったと言う点で魔裟斗は本当に凄い格闘家だと思う。
だけれども私は底意地の悪い観客なので、魔裟斗が提供しようとしたこれらの「上澄み」の下にあるものに目を向けてしまう。
それは例えば、かつてボクサー相手の試合で足を蹴りまくって危なげなく勝った試合であったり、山本KID戦で追い詰められたと見るや金的一発をかまして形勢を逆転したことであったり(偶発的な事故だったと思うが、結果論的に)、2004年か2005年のK-1MAX決勝のブアカーオ戦での偏向判定(プロモータのプロテクトぶり)であったりだ。
今回のアンディ・サワー戦は完勝だったし、本当に素晴らしい大団円だったと思うのだが、第5ラウンドでクリンチを駆使しまくって判定勝利をもぎ取ったり、準備期間をタップリ取ってる魔裟斗に比べサワーは10月26日に連戦したばっかりやんというそもそもの試合の妥当性の問題だったり、そういう、大団円という「上澄み」の物語の下にあるものに目が行ってしまう。
何も私は完全公平な土壌で勝負をやって勝てといいたいわけではない。きっちりKO勝利しろよということでもない。そういう清濁や奇遇、さまざまな要素が絡み合った末にリング上で雌雄を決するのが格闘技のダイナミズムだと判ってはいるし、思ってもいる。だが、こと魔裟斗の試合に関してはそういう清濁が漂白されていると言うか、観客の感情として「努力する天才、スーパーヒーロー魔裟斗が想像を絶する辛苦の果てに栄光をもぎ取った」的なストーリーに寄り添わなければ楽しめないような構造になっているような気がして、それに乗れなかったんだと思う。
で、その構造に乗れなかった理由としては、やっぱり「英雄を演じきる」ことに対して、魔裟斗およびプロモータの意識が低かったからと言わざるを得ないんだよな。ガチンコの世界で「英雄を演じきる」なんてことは、ほとんど不可能に近いですよ。それは判ってる。でも、それを提供しようとするならば、サワー相手にはクリンチなんかせずに徹頭徹尾倒しに行くべきだったし、準備期間が全然違う相手と試合をするようなことをせずに今年も堂々とトーナメントに出て優勝を掻っ攫うべきだったんだと思う。何というか、この試合や今までの軌跡をもって「スーパーヒーローの勇退」としてしまう、その意識の低さにはやっぱり夢中になれないんです。普通に強い選手が普通に戦って普通に辞めていく、魔裟斗の引退というのは私にとってはそれだけの話であって、そこに積極的に美しい物語をかぶせてもやっぱり乗れないんです。
自分でもメチャクチャ言ってるのは自覚しているし、そもそもこんなヨタ話は私の何十倍も努力しているであろう魔裟斗選手、および彼の物語に酔った大多数の観客にとってはほとんど言いがかりや侮辱に近いだろうから、まあこういう見方もあるのですよということでご容赦ください。何度も言いますが魔裟斗選手自体は本当に凄い格闘家だし、人間的にも立派な方だと思いますので。
印象に残ったのはこの三試合くらい。勝負論的に見所の合った戦極vsDreamは、戦極ってDreamに出れない人が出るところだと思っていたので実力が拮抗していて驚いたとか、青木はあれでいいのかもとか、川尻カットされて可哀想とか、アリスターがDream軍って卑怯だろとか色々思いましたがあんまり世間には届かなかったんじゃないかなという気がしている。全体的には格オタ的視点からも、お祭り的視点からも楽しめる、イッツァ谷川貞治だなと言えるものだったかなと。年末のニッポンを彩る立派な興行だったと思います。
『崖の上のポニョ』感想
今更ながら『崖の上のポニョ』を見たので、その感想を。ネタバレ全開ですのでご注意ください。
悪く言えば支離滅裂でムチャクチャ、よく言えばこれは新しい形のストーリーテリングなのかなと思った。どういうことか。
『崖の上のポニョ』というのは、プロットだけを取り上げれば凄くシンプルな話だ。要するに「人間ではない何かの少女が、人間の少年に恋をする。がそれは禁断の恋で、その恋を成就させようとすると宇宙の法則が乱れて世界が滅びてしまう。二人が結ばれるには、少女は己の力(魔法)を捨てて人間になり、少年はそんな少女を丸ごと受け入れなければならない。かくて少年は少女を受け入れ、二人は結ばれるのであった」。こういうお話自体はよく書かれ・読まれてきたし、大変理解しやすいお話であると思う。
しかし、『崖の上のポニョ』という映画の読後感は、そんな予定調和的なカタルシスとは全く無縁だ。「訳が判らない」とか「宮さんは狂っちゃったの?」とか思う人が続出したであろうことは想像に難くない。これは何故なのか。それはひとえに、肉付けの部分であるディティールや演出が滅茶苦茶であるからだ。
滅茶苦茶な点はあげつらうと数え切れないのだが、例えばこういう点だ。
- そもそもポニョ、及びポニョの両親は何なのか。
- なぜポニョと人間が結ばれると、宇宙の法則が乱れるのか。
- 何故ポニョは宗佑のことを好きになるのか。
- 宗佑がポニョを見て「あ、金魚だ」はおかしいだろ……。
- 宗佑の母親はなぜ大洪水の中、無理やり家に帰ろうとしたのか。
- そもそも父親が死んでるかもしれないのに、宗佑とリサは淡々としすぎではないか。
- 老人たちが走り回れるようになる描写に、何の感動もない演出。
- 何千人もの人死にが出たであろう大災害の後にもかかわらず、人々に悲壮感がないのは何故か。
- それどころか、月が落っこちて地球が滅亡しそうになっているのに、切迫感が全くない。
- 最後の竜宮城みたいな奴は何なのか。
- etcetc……
これらを考えるに、『崖の上のポニョ』で説明されていないことは大まかに言って以下の二つだ。
- 登場人物たちの行動原理
- 世界観や舞台背景のディティール
これらは物語が物語である要素、ストーリーを構成する根幹であるにも関わらず、この作品におけるこれらの扱いは非常にいい加減であり、ほとんど行き当たりバッタリにお話が展開されるので、観客は全くついていけない。これが『ポニョ』の印象を極めて難解なものにしている原因だろう。
で、私はこの映画自体の解釈よりも、何故宮崎駿がこういうものを撮って世に送り出したのか、そのことのほうが興味深い。前作『ハウルの動く城』も上記のような物語の部分が壊滅していた作品だったので、確信犯的に撮っているか、もうボケちゃっているかのどっちかなのだろう。
そして確信犯的に撮っているのだとしたら、宮崎駿は新しいストーリーテリングの形、新しい映画の形を模索しているのではないかと思う。『ルパン三世カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』のように、登場人物の行動原理に胸を熱くし、スクリーンの端っこにいたるまで構築されつくされた世界観に酔うようなエンタテインメントではない、新しい映画の形だ。
それはどういう映画か。一応プロットは存在するが、登場人物が何故そういう行動をとっているのか、そもそもどういう人物なのかはよく判らない。ファンタジーの要素は登場するが、それらがどういう世界観なのか、何をするもので何のためにあるかは一切説明されない。
それは精製され磨き上げられたエンタテインメントというよりも、我々が生きる現実をそのまま抽出したようなものなのかもしれない。我々が生きる世界では、人々の行動原理なんかは一言では説明できない。理性的な人が次の瞬間とんでもない行動に出ることだって、往々にしてある。我々が住んでいる世界についてだって、100%論理的に説明出来る事柄がどれほどあるだろうか。
いや、「現実をそのまま抽出する」だけでは言葉足らずかな。もっと正確に言えば「宮崎駿の脳内にある、どこかの世界をそのまま抽出した」作品が、この『崖の上のポニョ』なのだろう。その世界では大災害が起きて何千人が死んでも別に悲壮感はないし、父親が死んだかも知れなくても「大丈夫だといいねえ?」なのだ。「何かをそのまま抽出する」+「宮崎駿の脳内世界」という二回ひねりが加えられた映画が『崖の上のポニョ』なのである。こんなの、観客には理解出来ないよなあ。。。
かように狂った映画ではあるのだが、絵の魅力と言う点では宮崎駿の作品の中でも屈指なのではないかと思う。波の上をひた走るポニョのシーンは圧巻だったし、洪水後の世界、船の上から透明な水の下を覗き込む下りの美しさは素晴らしかった(宮崎映画って「水の下の世界を覗き込む美しさ」がよく描かれている気がする。ラピュタしかり、千と千尋しかり)。ウェルメイドなエンタテインメントとして成立することを拒否し、独特の作法と最高峰のイマジネーションで観客を良くも悪くも圧倒する大作、やはりこれはこれで宮崎駿にしか作れない凄い作品だなと思いました。
『マイマイ新子と千年の魔法』は奇跡そのものじゃないか

新宿ピカデリーにて『マイマイ新子と千年の魔法』を見た。素晴らしかった。本当に素晴らしかった。これはなんというか、存在すること自体が奇跡のような、そんな映画だ。何が奇跡なのかを一言で言えば、この映画が「物語のイロハを完全に無視した映画である」ことだ。いや、違うな。「物語のイロハを完全に無視したところで作られながら、観るものの心に極めて深い感動を与える」ところに、この映画の素晴らしさがある。以下ネタバレなしで感想を。
「物語のイロハ」とは何か。簡単に言えば、それは「登場人物が何かを乗り越える」ことに他ならない。
例えばよくあるアクション映画なんかは、「絶体絶命の危機に陥った主人公が、その危機を乗り越える」という構造で作られている。
まず、小さな危機5つ、中くらいの危機2つ、大きな危機1つを作っておいて、それをタイムスケジュール上に配置する。そして「愛する人のために危機を乗り越える」とか「人類のために危機を乗り越える」とか、まあこの辺は何でもいいんだけれど、そういう動機を主人公に持たせて危機を乗り越えさせるように仕向ける。観客はそれを観て、危機を乗り越えるために奮闘する主人公の姿に感動したり興奮したりするのだ。これが「物語のイロハ」であって、ほとんどの小説/映画/漫画はこういうエピソードをを組み合わせたりひねったりして作られる。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、そういう脚本の定石から言えば、まるで異端な作品に見える。まず、主人公たちに大きな危機など訪れない。いや、クライマックスではそれなりに深刻な事態が訪れるものの、主人公たちはそれを乗り越えるために奮闘したりしないし、むしろ奮闘するような展開を意図的に避けている様子すら見て取れる(「明日みんなで笑おうや!」という、まさに全員で奮闘しよう! という下りが、突発的に発生するとある事象で反故にされる展開なんかはまさにそれだ)。
この物語は「物語のイロハ」に則った、ツイストの利いた攻防など描かない。幾らでも転がせそうな魅力的なエピソードや素材がそこかしこにちりばめられているのだが、それらが有機的に結合してダイナミズム溢れる展開を生んだりもしない。そこに描かれる光景は、山口県の周防という田舎に住む新子という少女と、東京から転向してきた貴伊子を巡る、面白くもおかしくもない日常と、彼女らが見る空想の世界だ。グダグダのまま終わってしまうエピソードもあり、この脚本を映画学校の脚本コースの卒論に提出したら落第を食らってしまうかもしれない。
だが、『マイマイ新子と千年の魔法』は最終的に、机上の論理に則って作られた加工品としての枠を大きく逸脱したところで、観客の胸に深い感動と余韻を残す。常識的に考えるなら、本当はこんなダイナミズムのない物語で心を動かされたりはしないはずなのだ。だが、私はこの映画を観て大いに感動したし、観終わって何時間も経過した今ですら『マイマイ新子』について真剣に考えている。
なぜ私はこの映画にこれほど感動したのか。無理やり結論をひねり出すと、これはもう要するに「新子と貴伊子の二人が見たもの、体験したことが、純度100%混じりっけのない真実だったから」としか言えないと思うのだ。もう全部本当のことなんです。この映画は感動を生むために作られたわけではなく、何かのメッセージを伝えるために加工された物語でもなく、どこかの世界のどこかの時代のどこかの場所に確かに存在した「何か」を描き出す、そう、ただ描き出すためだけに作られた映画なのだ。
例えば新子が最後に夜の街へ出かけることになるキッカケのエピソード。このエピソードはそこに至るまで伏線も何も張られておらず、非常に唐突に訪れる。「物語のイロハ」的に処理をするならば、伏線を一本張っておくぐらいは簡単なことだ。だが、それは行われていない。なぜかというと、これは「本当のこと」であって、「それを描き出した」からであって、もっと言えば「物語」ではないからだ。現実に伏線など存在しないからだ。
そしてこの映画の凄いところは「物語のイロハ」を徹頭徹尾無視しながら、それでいて「新子と貴伊子にだけ見える、千年前の世界」という絵空事も平行して描いているところにある。この映画の根底に流れる思想は「どこまでも現実的であること」なのに、その上に立っている建造物は空想上の世界なのだ。これはお話として物凄く倒錯しているし、ある種パラノイア的でもあるのだけれども、だからこそ空想上の存在である「千年前の世界」を観客は現実の一部として感じられ、新子と貴伊子というフィルターを通して、「子供のころにしか見えなかった何か」を我がこととして体験し、感じることが出来るのだと思う。「物語のイロハを超えたところで生まれる感動」の正体はこれではないか。
通常このようなことをやろうとすると、自己満足的なわけの判らない映画になってしまいがちなのだが、この映画は見事にこの困難を成し遂げ、一本の作品として極めて充実した出来ばえになっている。この無理難題、矛盾の塊を無理やり成立させているものがなんなのか。映像の美しさなのか、登場人物の魅力なのか、なんなのか、それはよく判らない。判らないが、なんというか、こういう映画が存在すること自体に私は深い感動を覚えてしまう。小賢しい計算を超えたところで生まれる「物語の力」「映画の力」、そう呼ぶしかない無形の何かを、この映画は強く持っている。だから、この映画が存在することは、とても美しい奇跡なのだと思うのである。
なんにせよ本作は私にとってちょっと稀有な物語体験を与えてくれた。この映画に出会えたことは、本当に素晴らしい出会いでした。この映画を教えていただいたペンクロフさんに心より感謝。
もうちょっと突っ込んだネタバレ感想は、いずれ考えがまとまったら書きたいです。もう一度観ようかな。。。
ホルンHigh-F管(High-Fシングル管)貸します(レンタル)

High-F管のシングルホルンを今年購入したのですが、一度使ったのちあまり使う機会がないので、レンタル楽器としてご希望の方に貸し出しさせていただきます。ご興味のおありの方は、yusuketsuiki@burleske.sakura.ne.jpまでお気軽にご連絡ください。
- ヨーゼフ・リードゥルというメーカーの楽器です。調整はHigh-Fです(普通のF管の1オクターブ上)
- 高音域が軽やかに鳴ります。ダブルホルン、トリプルホルンのHigh-F管よりも音程や音色は抜群によいです。
- 貸し出し費ですが、3ヶ月1万円でお貸しします。3ヶ月ありますので、オケでのワンシーズン丸々使えると思います。ケースもお貸しします。マウスピースはご自分でご用意ください。
- 貸し出し中に出来た凹み、傷などは借主の負担により修理していただきます(傷については、ごく細かいものでしたら修理は不要です)。補償範囲につきましては、貸し出し前に契約書を書いていただき、それに準拠します。
- 貸し出し前の試奏は出来ます。私は東京都千代田区在住ですので、その近辺に来ていただき、試奏していただく形になります。
ブランデンブルグ協奏曲第1番、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンなどの高音域が多発する楽曲、あるいはアンサンブルなどで力を発揮します。業者さんではまずHigh-Fシングル管の貸し出しはしていない上、料金的にも業者さんより格安だと 思います。
■この楽器を手に入れるに至った経緯
2009年にハイドンの『受難』をやる機会があり、第3楽章に出てくるHigh-Fのロングトーン対策用にデスカントホルンを探していたのがきっかけです。
ただ、デスカントホルンを貸し出してくれる知人が生憎いない上、楽器屋に出回っているものは50万、60万するダブルホルンやトリプルホルンばかり……。一応それらも吹いては見たのですが、なんだか音の抜けが悪く、音程もバラバラで想像していたような軽やかな高音が鳴らず、落胆していたところに偶然この楽器に出会いました。
吹いてみたところ、音色がスコーンと抜けるように綺麗に鳴り、F-durも(若干癖はあるのですが)それなりに並ぶ。「これはいい!」と膝を打った私は、即座に購入を決意。くだんのハイドンの演奏会で使用したところ(個人的には納得のいかない部分もあるのですが)それなりに好評をいただけました。
ここからは想像ですが、ダブルホルン、トリプルホルンというのは基本的にB管で演奏されることを前提として作られているせいか、付属のHigh-F管の作りがどうもイマイチな印象だったのですが、この楽器はシングル管としてHigh-F管で演奏されるために作られているので、音色や音程面でさほどストレスがないのだと思います。ある程度ホルンの経験を積んでらっしゃる方でしたら、苦労なくコントロール出来る楽器だと思います。
■参考音源
件のハイドン『受難』で使った音源です。High-Fが少しぶらさがってますが、これは楽器の特性よりも奏者の腕前によります。音色はこのような感じです。
レッジェーロフィルハーモニー管弦楽団 第5回定期演奏会

レッジェーロフィルハーモニー管弦楽団の定期公演、無事終了しました。
今回は大好きな『運命』と、以前から演奏したかったシュベ5&ジークフリート牧歌が同時に出来ると言うことでかなり気合いを入れて挑んだ公演でした。以下雑感。
■ロビコン
楽屋でVnの二重奏から観戦。
今回はロビーとホールとで演奏会前コンサートをやったのだけれど、凄くいい企画だなと思った。特に二箇所で演奏が進んでいくというのは、テーマパークみたいで凄く素敵。お客さんも演奏者も肩肘を張って演奏をする「会」ももちろんよいのだけれど、こういう気軽に楽しめる音楽というのもいいですね。
Vn二重奏は息も音色もピッタリで、聴いていて驚くほどよかった。ホルンではああいう表現力は出せないなあ。。。来年もまた何かやってください。
■シューベルト 交響曲第5番
2ndを担当。
この曲はレジェフィルの新しい引き出しを増やしてくれたかなという気がした。打楽器やラッパが省かれたシンプルな響き、ベートーヴェンと違って勢いでぐいぐい押せないが、音楽の推進力を失ってはいけないデリケートさ。ある意味今回のプログラムの中でもっともチャレンジングな演目だったと思うのだが、結果はよい方向に出たと思う。清水先生もこの曲の出来が一番納得がいかれていたようだった。
この曲は特に木管陣が見事で、ソロを勤めた3人も素晴らしかったのだけれど、木管セクション(+ホルン)で綺麗なハーモニーが作れたのが何よりよかったかなと思う。木管セクションがしっかり溶け合うと、オルガンにもピアノにも出せない、非常に甘美で独特な音色がするものなのだけれど、この日はそういうものが随所に出ていたかなと。ダブルリードセクションの2nd奏者が抜群に安定していたことも要因だと思うし、ホールとの相性もよかったかなと。
オケとしての課題は、これはどのオケも大体そうなのだけれど、演奏会の一番最初に取り上げる曲はアンサンブルがなかなか落ち着かないということか。今回は第1楽章の提示部が終わったあたりでようやくアンサンブルの腰が座ったと感じたのだけれど、とかく本番機会の少ない我々アマチュアは演奏会の冒頭一小節目から腰を落ち着けたアンサンブルをするのが難しくて、序盤はどうしても浮き足立った演奏になってしまうと感じた。ただこれは演奏している側の感想であって、お客さんには伝わらないレベルかもしれないけれど。
ホルンは久々に大湾さんの下での演奏。アーティキュレーションのつけ方や、他の楽器のアンサンブルの仕方など、本当に勉強になったし楽しかった。3楽章のTrioは結構いいセンいけたんじゃないかと思うのだが、はてさて。大湾さんとは来年の2月に管楽八重奏でまたご一緒するので、より一層ガッチリとしたタッグが組めるように精進したいところです。
■ワーグナー ジークフリート牧歌
1st担当。個人的メイン。
編成はシンプルだが後期ロマン派の曲ということもあり、テンポや曲想がめまぐるしく変わるし、無調的なところもある難しい曲。最初はどうなることかと思ったが、清水先生がだいぶ整理してくれたので本番はそれなりに確信を持って演奏できた。こういう曲をやらせると指揮者の手腕が際立ちますね。
ホルンは細かいソロがあちこちにあるのだけれど、大ソロというとlebhaftのところの長大などソロ(楽劇『ジークフリート』の愛の動機らしい)と、同じ動機が最後に出てくるところのソロ。前者は最初のAが綺麗にあたれば、後は勢いでいけると思っていたので、Aが出たのを確認した後は無心で吹いた。後者は弦楽器のハーモニーの上でホルンだけがソロを吹くという(木管の合いの手はあるけれど)美味しい箇所で、それまでよいテンションで演奏できていたので本当に気持ちよかった。弦楽器が綺麗に鳴ると、山の見晴台から森を望みつつ楽器を吹いているような気分になるのです。
録音を聴くといつものごとく愕然とする箇所があるのだろうけれど、とりあえず今回はこれで満足。木管でソロを務めた皆様もお疲れ様でした。美しかったですよ~。
■ベートーヴェン 交響曲第5番『運命』
1st担当。個人的には『ジークフリート牧歌』で終わった感があったのだが、演奏会メインは『運命』。
お客さんの評判はこの曲が一番よかったそうで、オケから凄い音が鳴っていてぞくぞくした箇所も多かったのだけれど、反面、このメンバーならばもっと高いレベルでの演奏が出来たんじゃないかな~とも思った。レジェフィルが過去やったベートーヴェンは、テンションと理性とがちょうどよいバランスで保たれていた印象だったのだけれど、この日はちょっとテンションが勝っていて理性がなおざりになっていたかなと。
『運命』は本当にアンサンブルの難しい曲で、細部にいたるまでアンサンブルを詰め辛かった側面が強いのだけれど、もっと部分部分の完成度が高ければ、テンションやパワーに加えて構築力のあるベートーヴェンになっていたのではないかと思うので、その辺が少し残念。レジェフィルはそういう高いレベルで音楽が出来る団体だと思うし、この辺は「もっと個人練やってこい」ではなく、運営的なソリューションで改善できる問題だとも思うので、次回以降色々模索していきましょう。
個人的には途中で上のGの音が出なくなってしまうという、練習でも今までの本番でも体験したことのない怪現象が発生し(疲労か、楽器のメカ的な問題か?)、特に3楽章以降はかなり不本意な出来。ぐうむ無理せずもっとアシスタントに振っておけばよかった。。。
と、自分の中ではちょっと消化不良だったのだけれど、演奏中に色々と感動したこともあって、相変わらず抜群の統率力でオケを引っ張ってくれたわっきーさん&はるこさんのコンビや、3楽章Trioのチェロ&ベース部隊、1楽章の気合の乗ったmasaさんのオーボエカデンツァ、2楽章で美しいアンサンブルを聴かせてくれた木管セクション、本番10日前に緊急オファーしたにも関わらず完璧に本番を決めてくれたTimp、その他その他、オーケストラって本当に素晴らしいなと思いながらの30分間でありました。皆様どうもありがとう。
と、これで今年のオケ活動はおしまい。オケの本番はとりあえず来年のレジェフィルまではない予定で、以後は室内楽中心で地味に活動していきつつ、余裕が出来たらまた他のオケにも参加していければという感じ。大学を出て7年間、週末はほとんど楽器を吹いて過ごしていたので、ちょっとお休みです。
Note that the MySQL client library is not bundled anymore
サーバ構築に際してphpをconfigureしていたら、表題のようなエラーが出た。OSはCentOS5.3、phpは5.2.1。
調べてみると、MySQLの開発パッケージ(mysql-devel)が入っていないのが原因のようだ。yumでインストールしたら解決した。
# yum -y install mysql-devel
開始
一時期Movable Typeで構築していて、管理画面のあまりの重さに断念していたブログですが、このたびWord Pressを導入したのでこちらでやってみようと思います。
書く内容としては、
- システムエンジニアリング(本業)
- スモールビジネス(本業)
- スポーツについて(趣味)
- 音楽について(趣味)
- 読書について(趣味)
- 料理、グルメについて(趣味)
が中心になると思います。出来るだけ読者の立場から有益な情報を載せ、読んでいただける方に何かを持ち帰っていただけるようなブログにしたいと思います。宜しくお願いいたします。
タイトルの『LIFE』は敬愛する小沢健二の2ndアルバム名から採りましたが、1分で考えたテキトーなタイトルなので予告なく変更する場合があります(笑)