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『崖の上のポニョ』感想
今更ながら『崖の上のポニョ』を見たので、その感想を。ネタバレ全開ですのでご注意ください。
悪く言えば支離滅裂でムチャクチャ、よく言えばこれは新しい形のストーリーテリングなのかなと思った。どういうことか。
『崖の上のポニョ』というのは、プロットだけを取り上げれば凄くシンプルな話だ。要するに「人間ではない何かの少女が、人間の少年に恋をする。がそれは禁断の恋で、その恋を成就させようとすると宇宙の法則が乱れて世界が滅びてしまう。二人が結ばれるには、少女は己の力(魔法)を捨てて人間になり、少年はそんな少女を丸ごと受け入れなければならない。かくて少年は少女を受け入れ、二人は結ばれるのであった」。こういうお話自体はよく書かれ・読まれてきたし、大変理解しやすいお話であると思う。
しかし、『崖の上のポニョ』という映画の読後感は、そんな予定調和的なカタルシスとは全く無縁だ。「訳が判らない」とか「宮さんは狂っちゃったの?」とか思う人が続出したであろうことは想像に難くない。これは何故なのか。それはひとえに、肉付けの部分であるディティールや演出が滅茶苦茶であるからだ。
滅茶苦茶な点はあげつらうと数え切れないのだが、例えばこういう点だ。
- そもそもポニョ、及びポニョの両親は何なのか。
- なぜポニョと人間が結ばれると、宇宙の法則が乱れるのか。
- 何故ポニョは宗佑のことを好きになるのか。
- 宗佑がポニョを見て「あ、金魚だ」はおかしいだろ……。
- 宗佑の母親はなぜ大洪水の中、無理やり家に帰ろうとしたのか。
- そもそも父親が死んでるかもしれないのに、宗佑とリサは淡々としすぎではないか。
- 老人たちが走り回れるようになる描写に、何の感動もない演出。
- 何千人もの人死にが出たであろう大災害の後にもかかわらず、人々に悲壮感がないのは何故か。
- それどころか、月が落っこちて地球が滅亡しそうになっているのに、切迫感が全くない。
- 最後の竜宮城みたいな奴は何なのか。
- etcetc……
これらを考えるに、『崖の上のポニョ』で説明されていないことは大まかに言って以下の二つだ。
- 登場人物たちの行動原理
- 世界観や舞台背景のディティール
これらは物語が物語である要素、ストーリーを構成する根幹であるにも関わらず、この作品におけるこれらの扱いは非常にいい加減であり、ほとんど行き当たりバッタリにお話が展開されるので、観客は全くついていけない。これが『ポニョ』の印象を極めて難解なものにしている原因だろう。
で、私はこの映画自体の解釈よりも、何故宮崎駿がこういうものを撮って世に送り出したのか、そのことのほうが興味深い。前作『ハウルの動く城』も上記のような物語の部分が壊滅していた作品だったので、確信犯的に撮っているか、もうボケちゃっているかのどっちかなのだろう。
そして確信犯的に撮っているのだとしたら、宮崎駿は新しいストーリーテリングの形、新しい映画の形を模索しているのではないかと思う。『ルパン三世カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』のように、登場人物の行動原理に胸を熱くし、スクリーンの端っこにいたるまで構築されつくされた世界観に酔うようなエンタテインメントではない、新しい映画の形だ。
それはどういう映画か。一応プロットは存在するが、登場人物が何故そういう行動をとっているのか、そもそもどういう人物なのかはよく判らない。ファンタジーの要素は登場するが、それらがどういう世界観なのか、何をするもので何のためにあるかは一切説明されない。
それは精製され磨き上げられたエンタテインメントというよりも、我々が生きる現実をそのまま抽出したようなものなのかもしれない。我々が生きる世界では、人々の行動原理なんかは一言では説明できない。理性的な人が次の瞬間とんでもない行動に出ることだって、往々にしてある。我々が住んでいる世界についてだって、100%論理的に説明出来る事柄がどれほどあるだろうか。
いや、「現実をそのまま抽出する」だけでは言葉足らずかな。もっと正確に言えば「宮崎駿の脳内にある、どこかの世界をそのまま抽出した」作品が、この『崖の上のポニョ』なのだろう。その世界では大災害が起きて何千人が死んでも別に悲壮感はないし、父親が死んだかも知れなくても「大丈夫だといいねえ?」なのだ。「何かをそのまま抽出する」+「宮崎駿の脳内世界」という二回ひねりが加えられた映画が『崖の上のポニョ』なのである。こんなの、観客には理解出来ないよなあ。。。
かように狂った映画ではあるのだが、絵の魅力と言う点では宮崎駿の作品の中でも屈指なのではないかと思う。波の上をひた走るポニョのシーンは圧巻だったし、洪水後の世界、船の上から透明な水の下を覗き込む下りの美しさは素晴らしかった(宮崎映画って「水の下の世界を覗き込む美しさ」がよく描かれている気がする。ラピュタしかり、千と千尋しかり)。ウェルメイドなエンタテインメントとして成立することを拒否し、独特の作法と最高峰のイマジネーションで観客を良くも悪くも圧倒する大作、やはりこれはこれで宮崎駿にしか作れない凄い作品だなと思いました。
『マイマイ新子と千年の魔法』は奇跡そのものじゃないか

新宿ピカデリーにて『マイマイ新子と千年の魔法』を見た。素晴らしかった。本当に素晴らしかった。これはなんというか、存在すること自体が奇跡のような、そんな映画だ。何が奇跡なのかを一言で言えば、この映画が「物語のイロハを完全に無視した映画である」ことだ。いや、違うな。「物語のイロハを完全に無視したところで作られながら、観るものの心に極めて深い感動を与える」ところに、この映画の素晴らしさがある。以下ネタバレなしで感想を。
「物語のイロハ」とは何か。簡単に言えば、それは「登場人物が何かを乗り越える」ことに他ならない。
例えばよくあるアクション映画なんかは、「絶体絶命の危機に陥った主人公が、その危機を乗り越える」という構造で作られている。
まず、小さな危機5つ、中くらいの危機2つ、大きな危機1つを作っておいて、それをタイムスケジュール上に配置する。そして「愛する人のために危機を乗り越える」とか「人類のために危機を乗り越える」とか、まあこの辺は何でもいいんだけれど、そういう動機を主人公に持たせて危機を乗り越えさせるように仕向ける。観客はそれを観て、危機を乗り越えるために奮闘する主人公の姿に感動したり興奮したりするのだ。これが「物語のイロハ」であって、ほとんどの小説/映画/漫画はこういうエピソードをを組み合わせたりひねったりして作られる。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、そういう脚本の定石から言えば、まるで異端な作品に見える。まず、主人公たちに大きな危機など訪れない。いや、クライマックスではそれなりに深刻な事態が訪れるものの、主人公たちはそれを乗り越えるために奮闘したりしないし、むしろ奮闘するような展開を意図的に避けている様子すら見て取れる(「明日みんなで笑おうや!」という、まさに全員で奮闘しよう! という下りが、突発的に発生するとある事象で反故にされる展開なんかはまさにそれだ)。
この物語は「物語のイロハ」に則った、ツイストの利いた攻防など描かない。幾らでも転がせそうな魅力的なエピソードや素材がそこかしこにちりばめられているのだが、それらが有機的に結合してダイナミズム溢れる展開を生んだりもしない。そこに描かれる光景は、山口県の周防という田舎に住む新子という少女と、東京から転向してきた貴伊子を巡る、面白くもおかしくもない日常と、彼女らが見る空想の世界だ。グダグダのまま終わってしまうエピソードもあり、この脚本を映画学校の脚本コースの卒論に提出したら落第を食らってしまうかもしれない。
だが、『マイマイ新子と千年の魔法』は最終的に、机上の論理に則って作られた加工品としての枠を大きく逸脱したところで、観客の胸に深い感動と余韻を残す。常識的に考えるなら、本当はこんなダイナミズムのない物語で心を動かされたりはしないはずなのだ。だが、私はこの映画を観て大いに感動したし、観終わって何時間も経過した今ですら『マイマイ新子』について真剣に考えている。
なぜ私はこの映画にこれほど感動したのか。無理やり結論をひねり出すと、これはもう要するに「新子と貴伊子の二人が見たもの、体験したことが、純度100%混じりっけのない真実だったから」としか言えないと思うのだ。もう全部本当のことなんです。この映画は感動を生むために作られたわけではなく、何かのメッセージを伝えるために加工された物語でもなく、どこかの世界のどこかの時代のどこかの場所に確かに存在した「何か」を描き出す、そう、ただ描き出すためだけに作られた映画なのだ。
例えば新子が最後に夜の街へ出かけることになるキッカケのエピソード。このエピソードはそこに至るまで伏線も何も張られておらず、非常に唐突に訪れる。「物語のイロハ」的に処理をするならば、伏線を一本張っておくぐらいは簡単なことだ。だが、それは行われていない。なぜかというと、これは「本当のこと」であって、「それを描き出した」からであって、もっと言えば「物語」ではないからだ。現実に伏線など存在しないからだ。
そしてこの映画の凄いところは「物語のイロハ」を徹頭徹尾無視しながら、それでいて「新子と貴伊子にだけ見える、千年前の世界」という絵空事も平行して描いているところにある。この映画の根底に流れる思想は「どこまでも現実的であること」なのに、その上に立っている建造物は空想上の世界なのだ。これはお話として物凄く倒錯しているし、ある種パラノイア的でもあるのだけれども、だからこそ空想上の存在である「千年前の世界」を観客は現実の一部として感じられ、新子と貴伊子というフィルターを通して、「子供のころにしか見えなかった何か」を我がこととして体験し、感じることが出来るのだと思う。「物語のイロハを超えたところで生まれる感動」の正体はこれではないか。
通常このようなことをやろうとすると、自己満足的なわけの判らない映画になってしまいがちなのだが、この映画は見事にこの困難を成し遂げ、一本の作品として極めて充実した出来ばえになっている。この無理難題、矛盾の塊を無理やり成立させているものがなんなのか。映像の美しさなのか、登場人物の魅力なのか、なんなのか、それはよく判らない。判らないが、なんというか、こういう映画が存在すること自体に私は深い感動を覚えてしまう。小賢しい計算を超えたところで生まれる「物語の力」「映画の力」、そう呼ぶしかない無形の何かを、この映画は強く持っている。だから、この映画が存在することは、とても美しい奇跡なのだと思うのである。
なんにせよ本作は私にとってちょっと稀有な物語体験を与えてくれた。この映画に出会えたことは、本当に素晴らしい出会いでした。この映画を教えていただいたペンクロフさんに心より感謝。
もうちょっと突っ込んだネタバレ感想は、いずれ考えがまとまったら書きたいです。もう一度観ようかな。。。